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スズメ百まで踊り忘れず
物心ついてから
気が付いた時には物作りが好きだった。

私の右手人差し指の指紋には幼い日の傷跡が残っている。

これは私にとってはいわば勲章のようなもの。
以来、私の興味はもっぱら機械いじり。 この歳になるまで変わらない。

小学校時代
この子は音痴です

小学校2年生のこと。 授業参観に来た母は担任の先生に「この子は音痴です」 と言われる。

母の決断
それを聞いた母は大いに憤慨して、何とか私を人並みにしたいと考えました。
家は貧乏していましたが、大枚をはたいて「足踏みオルガン」を買い、私をピアノ教室にやることにしました。

サツマイモの記憶
父は佐世保の駐留軍基地で働いていましたが、給料は安く、食べていくのがやっとでした。
山の中腹の竹やぶを借りて、開墾しサツマイモを植えて食料の足しにします。
9月から翌年の2月まで毎日サツマイモが主食です。  いまだに私はサツマイモが大嫌い。 味ではなくて見たくない。

お風呂は五右衛門風呂、家は山の上でしたから水道が上がらず、水汲みが日課でした。

内職とバイト
母は内職を始め、私も手伝います。  ビーズ刺?やリリアン刺繍、クッション作りなどこの時期に覚えたことは後に役立ちました。
食事の支度も私の役目。 市場に買い物に行くのは今でも楽しみです。

応援団長なのに

高校では応援団長をするかたわら、コーラス部で先生の代わりに稽古をつけるのが役目。  学校にゲタ履きで行くし教科書は買わないし、先生にとっては厄介な生徒でしたが、 弱いものいじめはしません。悪ガキどもともうまくつきあっていました。

道を選ぶ
高校3年になるとそろそろ進路を決めなくてはなりません。(おそいか)  それまで続けていたピアノレッスンの先生に「プロを目指すか? 」と聞かれ、初めて自分の才能の限界を悟る。
結局もともと好きな電気工学の道を選びます。

花嫁は夜汽車に乗って
昭和41年大学工学部に入学。 福岡市で下宿生活を始めます。
昭和43年(1981年)米軍ファントム機が大学構内に墜落するのを目撃。  その後大学は封鎖、デモとマージャンに明け暮れる日々になりました。

昭和46年(1971年)現在の妻と結婚。 まだ学生の身分でしたが、父が強引に決めてしまいました。  もちろん私は反対はしませんでしたが。
そのころはやったのが「花嫁は夜汽車に乗って」  妻はすでに働いており、結婚式の前日夜汽車で私の実家に来たのでした。

一流会社への就職が決まったのに辞退して、地元の電気工事会社に勤め、毎日が穴掘りの生活が始まります。
この土方仕事がなんと後の人生に糧となったことか。

続く