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USS Ajax 1952年佐世保港で
私の好きなもの
差別しない心
三歳(1950年)になって、名切町268番地に引っ越しました。


折しも朝鮮戦争が始まり、佐世保市内にはアメリカ兵があふれていました。
町内の住人の半数とも思える米兵ととの家族が住んでいましたから、彼らが外国人であるという意識はほとんどありませんでした。 父はそのころから米軍基地で働くようになっていて、夜間中学しか出ていない父は独学で英語を勉強していました。

また町内に「名切炭鉱」があって、炭鉱で働く人も多く住んでいましたし、小学校に入ると同級生の家庭は様々な職業であることを知り、いろんな人が自分の周りにいて、誰もが普通のひとだとお思えました。
この幼少期の記憶は私の一生を通じて、他人を自分と違う世界に住んでいるという意識から解放してくれました。

私のフェミニスト観

私は「男らしくない」けれど「目立ちたがり屋な」子供でした。
むしろ、子供のころから女性が独占していた仕事、料理や編み物、染色などに強い興味があって、自分もやってみたいと思っていました、
同級生の中でも男女関係なく一緒に遊びましたし、中学を卒業するころまで、異性を意識するより理解できる友人としての思いが強くありました。
後に再会した時もお互いにそのように感じていたと思います。

一方で目立ちたがりの性格でしたが、負けず嫌いではありませんでした。
足が遅くて、かけっこではいつもビリだったので、、人に後れを取ることは慣れていましたし、負け惜しみを言うわけでもありませんでした。

この写真について

これはUSS Ajax エイジャックス号、アメリカの軍艦です。当時の米海軍太平洋艦隊の旗艦でした。
通常の戦闘艦ではなく、工作艦(工場艦)で艦隊の修理を受け持つ船でした。

当時世界最大の太平洋艦隊は横須賀と佐世保を母校にしていて、この写真はフリゲート艦を従えて朝鮮戦争から戻ったところです。
私が中学生のとき、父はこの船の修理をしており、たまたま私が弁当を届けたときに米兵が私に艦内を案内して父にところにつれていってくれ、いろんなところを見せてくれました。

現在では考えられないことですが、当時は米軍の上陸強襲艦で日本人従業員とその家族が海水浴にいったりしていました。

信頼と信用

私の考え方にはいくつかの法則があります。

「信頼」するが「信用」しない
ある人が信頼に足ると思えば「信頼」します。 その信頼は長く続きます。
「信頼」できる人でも「信用」しません。
変な考えだと思われるでしょうが、私の中では信頼と信用を別のものととらえています。
「信頼は」その人の人格を尊敬すること。 「信用」はその人の行動に期待すること……のように使い分けます。
自分が信頼している人でも何らかの要因で私の期待を裏切ることがあり得ます。
  その時に私はうわべだけではなく、心の中でもその人を責めてはいけないということです。

振り返って自分が相手の信用に答えられなかったときは、素直に謝りたいと思います。

続く